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三河の住人の庵

三河の住人の庵

天正18年 小田原征伐の路 

07年10月7日 午前2時30分 高槻の五郎さんの車で 小田原に向け出発。
小田原に入って少し手間取ったが 6時前に 一夜城(石垣山)に到着。

夜明け石垣山.JPG


このあと 小田原城を見て 西にとってかえし 箱根の近くにある 山中城祉をまわった。

歴史上の行程は西から東へ 順に進んでいる。

天正18年(1590年)3月関白秀吉 小田原に向け 京を出陣。
3月10日参州吉田、19日駿府、27日沼津に着陣している。

3月29日未明 秀吉方の先陣 豊臣秀次を総大将に 堀尾・田中・中村・一柳の軍 7万が 山中城になだれ込んだ。
守は 松田清秀・北条氏勝の4千。
半日の戦闘で松田清秀以下多数討死、氏勝は伊豆に落ちた。

山中城図.JPG

山中城は 想像していた規模をはるかに超えた大きさであった。
国道1号線を挟んで 南に 岱崎出丸がある。
入り口を 旧箱根街道の石畳が横切っている。

芝生がはられ 整備が行き届いており 一見なんの変哲もない公園のようだが 前方の土手(土塁)を上がると 目の下に見事な 畝堀が現れた。
オー すごい。 と声をあげた。 

山中城畝堀.JPG

南前方に三島の町が見える さらにその向こうには 海。
そして 北方に頭を向けると・・・

山中城富士を望む.JPG

富士山が 見えた。

ふたたび国道脇の駐車場に戻り 本丸を目指す。
整備された道をたどると 次々に堀が現れる。

私が 今まで見た城跡の堀といえば 文字通り空堀で 敵の行く手を邪魔するために掘下げた穴でしかない。

山中城のそれは 人手を感じさせる 芸術的な堀である。

なかでもすばらしかったのは 西の丸を囲む障子堀である。
障子の桟に似ているから付いた名であろう。

障子堀.JPG

東海道を 下ってくる敵を箱根の入り口で防ぐ砦である。
砦としては巨大で 堀の一つ一つにてをかけているのだが 守兵の20倍近い軍が寄せ来るとは想像もしていなかったのだろう。

箱根を越えた秀吉が 小田原城を真向かいに見る山の上に 突貫工事で築いたのが 石垣山一夜城。
関東ではじめての石垣をそなえた城である。
実際は80日で完成したというのだが 城跡を見るだけで 本格的な城だったことがわかる。秀吉はすごい。

井戸曲輪の石組み

一夜城井井戸櫓.JPG

小田原城を望む

小田原城を望む.JPG

世に言う 太閤と家康の連れションの舞台であろうか。
関東移封のことは 4月に打診されたというから まだ城完成前である。

石垣山から 直線3kmか4kmの小田原城には
8時に到着した。
五郎さんに言われて 天守のある広場が動物園になっていることを知った。

小田原城.JPG

15万の大軍に囲まれた小田原城は 7月7日降伏した。

開城後、小田原城は 太閤より 家康の臣 大久保忠世に賜った。
私は なんだか 釈然としない。
子 忠隣のとき 取り上げられたが その後再び 大久保家が入った。

戦勝の功として 家康に関東八州250万石を賜るとの発表は7月13日。
家康は 7月29日 小田原の地から 江戸入場 8月には その家臣団が 関東入りしている。
駿河 遠江 三河の地は 大騒動だっただろう。

岡崎の地は 田中吉政、駿府は 中村一氏の所領になった。


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07年10月8日作成

 





 




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